こんな本屋があったら良いな
毎回Amazonで本を買っているけど、たまには実店舗に行こうかなって思って昨日本屋に行ったんだよね。
何か、配達員の人の負担を少しでも減らそうかなと思ってさ。
悪い気するじゃん。皆忙しそうだしさ。
だから自分の足で買いに行こうと思ってね。
ただね、無かったんだよね。
本屋を複数梯子したけど、目当ての本は無かったよ。
結局Amazonで注文したけどさ、
実店舗にも良さがあって、本の品揃えって、店員さんが決めるじゃない。
つまり、自分じゃない他人が決めるんだよね。
そうするとさ、新しい出会いがあるんだよね。
「へー。こんなのあるんだ」とか
「これは、ありえないな」とか
それが楽しいんだよね。
本ってさ、今の時代は、ある意味誰でも出版できるじゃない。
だからね、本当に玉石混合で、残念な本も溢れてるんだよね。
初めて読むジャンルだとさ、何が良いのか分からないじゃない。
ネットで調べても、何処までがステマなのか、アフリエイトなのか分からなくて、
買って後悔って多いんだよね。
だから、そのあたりをスクリーニングしてくれて、適切なアドバイスをくれる本屋があれば、流行るんじゃないかなって思ったよ。
ストレスと禅
ストレスってさ、禅では消えない気がするよ。
禅は、あくまでも自我から離れて、心地よい状態を作り出す事であって、
ストレスを解消するものではない気がする。
ストレスはさ、蓄積するよ。
ダムの水のように。
蓄積し続ける。
何らかの方法で、減らさないとダムが決壊する。
ダムは心であり体であり。
いずれにせよ決壊する。
禅は、ただただダムに水が溜まっていくのを眺める。観察する。
ダムに水が溜まっていくからといって、焦ったり恐怖を感じたりしない。
ただただ心を平穏に眺める。
だけど、眺めているだけだから、いつかダムは決壊する。
だから、ダムの水は定期的に減らさないといけない。
これに気が付かなかった。
禅をやっていれば、全てOKだと思っていたけど、全然OKじゃなかったよ。
ストレスを減らす方法はいくつかあるけど、おすすめは、
- ジョギング
- サイクリング
- カラオケ
かな。
ジョギングとサイクリングは、疲れない程度に心拍を上げてあげるといい感じでストレスが抜けていく。
カラオケは、心の叫びをそのまま歌に乗せれば、すっきりするよ( ´艸`)
後さ、ストレスも溜まり過ぎると、心や体を壊すけど、
ストレスが無さ過ぎると、無気力になるよね。
要はストレスも一種のエネルギーだと思うよ。
だから、必ずしも悪い物ではなく、付き合い方次第だと思うよ。
AIとかAGIとか、chatGPTとか
仕事で統計を扱っていて、
重回帰分析、ラッソ、リッジ回帰、機械学習、さまざま分析してるけど、
教師有り学習の場合は、データのスクリーニングが本当に重要。
玉石混交のデータを使って、統計モデルを作っても、何の役にも立たない。
外れ値を除外して、ある程度系統の揃ったデータで統計モデルを作らないと、精度の高い予測は出来ない。
ここで難しいのが、何処迄外れ値を除外するのか?
何処迄が系統に沿ったデータなのか?どこからが系統から外れるのか?
本当に難しい。
やりすぎると、特化した統計モデルとなる為、汎用性が無いけど、
やらないと、ガラクタになる。
経験上やらないよりはやった方がはるかに良い。
例え汎用性が無くても、特定の領域ではそれなりの予測精度が期待できるからだ。
つまり、統計モデルというのは、訓練データが重要な領域の大部分を占める。
つまりデータのスクリーニングが超重要。
最近はAIだ、chatGPTだ、AGIだと言われているけど、これらも統計モデルの一種。
だからその背後には、訓練データを作っている人が存在する。
その人が、どこまで外れ値を弾くべきなのか、考えながら、調整しながら、データをスクリーニングする。
つまり、スクリーニングを行った人の意図が多分に入り込む。
少し話がそれたけど、
AIは完璧な物だとか、公正中立の物だとか思っていなるかもしれないけど、
所詮は人の意図が入り込んだ恣意的な物であって、極論を言えばマスゴミさんと変わりがない。都合のいい部分だけを切り取っている事に違いは無いから。
だからそれほど優れたものではないんだよね。AIは。
他人の言葉はまったく気にしなくて良い
俺も他人の事がグサッと刺さって、辛い時が何度もあってさ、勉強したよ。
面白かったのがさ、「プロカウンセラーが教える他人の言葉をスルーする技術」って本でさ、今日は理解した事や思った事を俺なりに書いてみるよ。
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他人の言葉に振り回される時ってあるよね。
特に子供なんかは、親からの言葉に大きく振り回されるよね。
けどさ、言葉を発している人間て、本当は非常に不安定でいい加減な生き物なんだよね。
政治家を見ても、経営者を見ても、不祥事ばっかりでさ、
本で読んだんだけどさ、経営の神様と言われる松下幸之助でさえ、自分の息子を社長にする為に、ライバルになりそうな優秀な社員を切ったりしたんだって。
どんなに素晴らしいと言われる人間でも、中身は私利私欲の塊で、情緒が不安定な生き物なんだよね。
その私利私欲の塊で不安定な人間を、どうにかこうにか人として体面を取り繕っているのが、社会的な立ち位置なんだよね。
- 親はこうあるべき
- 子はこうあるべき
- 先生はこうあるべき
- 医者はこうあるべき
- サラリーマンはこうあるべき
- 課長はこうあるべき
- ...etc
こういった社会的立ち位置が、不安定な人間のタガとなって、どうにかこうにか体面を保っているだけの、本当にあやふやで、脆くて、情緒不安定な生き物が人間なんだよね。
だからさ、こんな人間が発している言葉なんて
全く
心底
真に受ける必要は無いんだよ。聞くだけ時間の無駄だよ。
もし、他人の言葉に振り回されて苦しいなら、本当に心底どうでもいい戯言だから気にする必要はないよ。
苦しくなければ、戯言を自分で取捨選択しながら楽しむぐらいが、本当に良いと思うよ。
老人介護について
うちの親も介護が必要でさ、この問題は他人事じゃないんだよね。
子供は親の介護をしないといけないのか?
法律上は介護をする義務は無くて、生活の扶養義務があるだけなんだよね。
つまり生活の金銭的な支援については、余裕のある範囲で行うといった、かなりグレーな義務しかない。
直接的な介護をする義務は法律上存在しなくて、これは海外と同じなんだよね。
アメリカでは扶養義務すらないけど。
老人介護問題。
介護者の話を聞くと、残念ながら幸せな話があまり聞こえてこないよね。
人を不幸にする話しか聞こえてこない。
そもそも大前提として、人は必ずいつか死ぬ。
今の介護も医療も死を遠ざける事に必死で、必ず来る死をどう迎えるかについてはあまり考えられていない気がする。
何処まで死を自然に任せるか?
自分も死にそうになった事はあって、手術を受けなければ死んでいたと思う。
何処からが自然な受け入れるべき死なのだろうか?
日本では前者の考えが主流のような気がするけど、人はいつか死ぬという大前提に立つと、ある一定年齢を越えたら、そこから先は自然な死の範疇というのが自然な気もする。
別のカテゴライズの方法もあるとは思う。
けど、これは死の選別につながる事で、おいそれと決められず、答えも出ない可能性がある。
答えは出ないけど、今のままでは老人介護も医療の在り方も課題がある事だけは分かる。
食品添加物を規制したらいいのにね
毎年税金上がっているよね。コロナとか、戦争があるのは分かるけど、日本はもっと前から年々上がっているよね。
社会保障費が、35兆円くらいで、毎年1兆円位伸びてるんでしょ。
医療費とかさ。
だから税金を上げる必要があるのかもしれないけどさ、
根本的な問題は、日本だけ病気になる人が増えているからでしょ。
日本だけ食べ物に馬鹿みたいに、食品添加物をいれててさ、それで病気にならないのはおかしいよ。
絶対病気になるでしょ。
肉の色を良くする添加物に、「亜硝酸ナトリウム」が使われていて、ベーコンとか赤身肉に結構使われているだけどさ、
これ劇薬指定されている、薬品なんだよね。
致死量が、0.18~2.5gで、簡単に人が死ぬんだけどさ、
こんなのとか、これ以外に、防カビ材(OPP)とか、次亜塩酸ナトリウムとか、たん白加水分解物とかソルビン酸とか、やべー添加物で一杯なんだよね。
日本の食べ物は。
コンビニで成分表見ると腐る程添加物が使われているよ。どれもこれも。
昔は、日本の食は安全だって信じ込んでいたからさ、
食品添加物が危険だ、農薬は危険だって叫んでいた人の声は全く耳に入らなかったけど、今の状況を見ると本当に危険だったね。
日本の政府って馬鹿なのかな?
危険な添加物を規制するだけならお金掛からないんだから、すれば良いのに。
アメリカに頭が上がらないのは分かるけどさ、マスメディアがスポンサーに頭が上がらないのは分かるけどさ、
国って、国民を守るのが大前提でしょ。
それなのに規制緩めて率先して国民に毒を食わせるとか、本末転倒だよ。
そしてそのツケを、税金上げて国民に払わせてるでしょ。
無能を通り越して、国民にとって有害でしかないよね。
思考と心と、自分は別
禅を学んで、思考と心と、自分は別という事が分かって楽になった。
どうしてこんな酷い考えが浮かぶんだろう?
どうしてこんな感情になるんだろう?
自分と感情、そして心が全て一体だと思っていた頃は、
- こんな酷い事が浮かんでくる自分は何て駄目な奴なんだ
- こんな感情になるなんて自分はどうかしている
結構辛かった。
心と思考に振り回されると共に、罪悪感を感じていた。
けど、禅を学んで、
心と思考は、自分ではなく、自分の物でも無い事が分かった。
だって、自分でコントロール何か出来ずに、
思考は勝手に浮かび、
心は勝手に移り変わる。
全く自分の物じゃないし、全くもって自分ではない。
そしたら、思考と心と、自分の間に距離感が生まれ、思考と心を客観的に見れるようになった。
岡潔は、「自分は認識の主体でしかない」と言っている。
何を言っているか分からなかったが、少しだけ分かった気がする。